昭和48年05月19日 朝の御理解



 御神誡 「まめなとき家業をおろそかにし物毎におごること。」

 私は今日御神前で頂きました事は、見事に炊き上げた赤飯を頂きました。綺麗なお重にこう詰めてね。お供えされるばっかりのような感じで赤飯です。いうならあずきごはん。そして次にただふつうの白いご飯をご神眼に頂いた。そこから私は今日のご理解を頂いて貰いたいと思います。これは御神誡です。御神誡というのは、例えば仏教にも、五戒というのがあります。キリスト教にはご承知のように十戒というのがある。もうそれは大変に厳しい事であり、大変に難しい事なんです。
 お道の信心でいう御神誡というのは、どの一か条を頂いてでもです。成程と合点がいくと同時に、誰でも努めようと思ったら、誰でも努められるほどしの事です。「物事に時節を待たず苦をする事」と例えばあります。その今日の御神誡のいっちょまえの所にある。ね。難しい事じゃないでしょう。何かそこに一つの問題が起きた。それをさあもうというて、解決するというんじゃあなくて、物事は時節にまかせなければならないのぞと仰るから、時節を待つ気になったらいいのですからね。
 お道の信心で言う御神誡というのは、私共が行じようと思えば誰でも行じられる。守ろうと思えば誰でも守られる。それでいてそれを守る事によって信心の喜びを頂き、おかげを受けて行けれるという道なんです。今日の「まめなとき家業を疎かにし物毎におごること。」と。と言う様な事でもです。だから不精な人は金光様のご信心は頂けません。本当に。遊び好きの人はお道の信心でいう本当の喜びに触れられないと思うです。
 だから例えば無精者であろうがです。なら遊び好きの人であろうがです。ひとたびああこんな事じゃあいけないなあと御教えに触れさせて頂く所からです。所謂忠実な仕事ぶりが出来る様になり、物事に奢っておった事の中から、慎んだ毎日を送らせて頂ける様に改められて来る訳です。私は「まめなとき家業を疎かにし物毎におごる事」と言う事をです。なぜそれであってはいけないかと。
 何故まめなとき家業を疎かにしてはいけないのか、物事に奢ってはいけないのかというとですね、私が今日頂きました御神眼から感じさせて頂くんですけれども、それではね信心の喜びに触れられないからです。私は「赤飯」というのは、教祖の御教えのなかにあります。私の頂いておる御教えの中に、「赤飯を炊いて祝うような心で信心をせよ」という、是は私二十年ぐらい前に頂いた御教えです。皆さんお目出度い事があるとお赤飯を炊くでしょう。ね、所謂誕生日といえば、お赤飯を炊いて祝うでしょう。ね。
 から赤飯を炊いて祝う様な心で信心はするのです。それに例えば今日頂いた、私が白い飯(まま)というのはです。ふつうのまんま、ただまま(飯)になりさえすればよか。ただままになりさえすればよいという信心では、だからいけないわけです。そこで信心の喜び言うなら、赤飯を炊いて祝い喜ぶような心、天地書付の中にあります、和賀心というのは「賀の心」というのは「祝賀の賀じゃ」と教祖様はおっしゃっておられます。和賀心の賀と言うのはね。祝賀の賀。
 祝い喜ぶと書いて、祝賀の賀じゃと。所謂赤飯を炊いて祝うような心を言うておられるのです。ですから私共が、日々信心の稽古をさせて貰い、信心生活させて頂く者がです。祝い喜ぶような心で信心をさせて貰わにゃあならん。是は私が毎朝感じるんですけれども、今朝なんか特にそうでした。もう控えに控えさせて頂いとって、四時のご祈念の時間が本当にもう待ち長い。なんか心がこう躍動してくる喜びで。
 まあ浮き浮きする。浮き浮きするというとちょっと可笑しいでしょうけれども、とにかく心が喜びで躍動してくる。とにかく神様と早う相対したい。もうそういう心で、一杯になるんです。私は朝。ああそういう心が、私は祝賀の賀であり、赤飯を炊いて祝うような心だと思うんです。だからそういう心はよかよか、もうよかよかと言った様な生き方からは生まれてこないです。努める所を努め、言わば努めさせて頂くというかね。例えば十時間働かなければならん所を、十一時間働くと言うか。
 同じ例えば十時間働いても、その内容が違う。所謂只しろいまま(飯)。所謂ままになりさえすればよいというのではなくてです。赤飯を炊いて祝い喜ぶような心で日々の御用をさせて頂くのが信心生活です。それをどう言う事にならないかというと、商売人が儲かりさえすればよいとか、ただ食べんならんから、働きよると言った様な生き方では、喜びは生まれません。所謂「まめなとき、家業をおろそかにしたのでは、どんなに神様の前にさかとんぼ打ったって、それは喜びは頂けません。
 今日はだからなぜ家業を疎かにしたり、ものごとにおごったりしてはいけないのかと。と言う事を聞いて頂いた。信心による喜びを頂け無いところか、喜びを頂いても、すぐ消えますです。こういう生き方になったら。例えば自分のめいめい頂いておる仕事をです。ほんとうにそれは神様に、あたえられた天職と思い、又は働くとは、はたが楽になる事の為に、自分の周囲が楽になる事の為に、私どもが働らかせて頂くと言う事が、真実の御用だと言われております。
 だから真実の所謂本当の御用が日々出来る所から、ああ今日も充分にお使い回しを頂いて有難いという心が生まれて来ます。皆さん体験があるでしょう。今日は十分にお使い回しを頂いたと言う時には、心の中に一つの満足が一杯です。そしてご神前に額ずかせて頂いた時にです、今日も本当に十分に働かせて頂いた喜びというものが湧いてくる。そういう喜びを育てて行く事が信心なのですから、その喜びが消える様な、その喜びが起こって来ない様な生き方をまずは改めなければならないと言う事になるでしょう。
 自分の頂いておる御用をおろそかにしちゃあなりません。しかも只時間つぶし。もう例えば勤めに出ておる人がです。時計ばっかり見て4時になったら帰らるる、5時になったら帰られる。早う4時にならんかなと言った様な事で勤めたっちゃ、絶対喜びはわきません。もう時間の経つのを忘れる位。勤めさせて頂いて、始めて働くと言う事になるのであり、同時に心の中に一生懸命の勤労の喜びと申しましょうかね、が与えられるのです。その喜びにおかげがあるのです。
 例えば分に過ぎた贅沢なんかしてみなさい。どんな喜びがあっても、必ず喜びが消えます。それを本当に勿体無い勿体無いと言った様な心持ちでです。品物でも物でも実際の事柄でも、勿体無いという心で大事に大切にさせて頂くとね。そのことを神様が喜んで下さるから、それに引き当てのように私共の心の中に、喜びを送って下さるのです。喜ばせて頂きたいためには、だからそういう精進が必要なのです。どうでしょうか。ただ白いご飯を食べとるという日々じゃないだろうか。
 ただ是から是まですれば、もう今日はおしまい。と中身に喜びも働くの精神もない、働き方ではいけません。神様に頂いた与えられた天職であると思うて、実意丁寧にしかも忠実に働かせて頂くところから、そこから頂けれるのが働く喜び勤労の喜び。ああ今日も一日お使い回しを頂いて有難うございましたとお礼の言えれるような心こそ、赤飯を炊いて祝いたいような心。そういう心で信心はせねばならぬと言う・・・・。ところが、私共はそれとは反対の心。ね、
 本当にどうしてこげな仕事ばいつまってん、せにゃんじゃろうかとか、こげなじゅつない仕事はなか、もう孫子に譲るような仕事じゃあない。と自分の頂いておる仕事に嫌気を感じる様な事では、働くと言う事にもなりませんし、喜びが与えられると言う事は決してありません。与えられておるその仕事を、ほんとに合掌して頂いていくという、生き方になれば、その心の状態にふさわしい仕事は必ず与えられる。高められれば高められた、ましな仕事が必ず与えられる。と私は思います。
 所が祝い喜ぶような心ばかりは出らずに、しるしい術ない、自分ひとりが貧乏くじを引いておるような思いで、日々の御用をさせて頂いたりまたは、寝たり転んだり。いうならば怠慢。そう言う事はこれはもう、いわゆる神様に対するご無礼にもなる。五体健全な体を頂いておるのに、遊びに呆けておる。そう言う事では信心の喜びは頂かれません。頂いておってもすぐ消えます。それでは。
 だから楽はしようと言う様な気は起こすなというのですよ。楽はせんぞという気になれと。そこから神様が与えて下さる楽。是はもう心から有難い楽しいものになってくるのです。私は信心させて頂く者が、美味しいかものば食べたいとか、いやほんとの修行の人たち・・・。芝居見に行きたいとか、映画に行きたいとか。まあちっとでん楽してから、さあなにかボーリングに行ってから遊うじこうかなんてんち言う。私はこの気持ちが昔から解らんです。私は若い時から、そういう道楽をした事がないから。
 自分でほんに美味しかもんば食べたいと思うた事がないです。ほんとです「今日でん、いっちょすきやきでんするか。」と、言うた事がないです。お客さんがあるときはしますよ。それで、けっこう与えられてきた。それであって始めて美味しいのであって、又は楽しいのである。神様に対する怠慢無礼がないように。家業を疎かにする様な事がないように。ものごとに奢ることのないように。何故かもう言わば「赤飯を炊いて祝うような心で信心をせよ」と仰るのに、それとは反対の事になるからです。
 所が今私どもは矢張り生身をもっておる人間ですから、解っておりながらついつい心の中に祝い喜ぶ所か、淋しゅうなったりいらいらしたりする様に成って来ます。腹が立ったりする。そう言う時にはですね。無心のものに触れる事です。邪気のない人に接する事です。愈々御神前に額ずく事です。お取次ぎを頂くことです。私はそう思う。私は最近それを実感致しますけれど、今日は家内にいっちょあれば文句言おうかと思いよってもです。家内が孫を抱いてから。
 私の顔を見るなり「はい、叔父いちゃま。」とかなんか言うたらです。もうそれこそ不思議な位に消えるです。心の中に文句を言おうと思いよった心が。そしてもうそれこそ、あれはもう無心なものというか、無邪気なものに触れるとそうです。腹の立つとはそれで消える。もやもやしよるとはそれで消えるです。だからもうほんとに無心なものに接すると言う事。私共が、御本部参拝させて頂いて。
 金光様の前に出らせて頂きますと、金光さまが無心に、只人が助かる事さえ出来ればよいという、ご一念でご奉仕下さっておるお姿に触れますと、もうなんも心になくなってくるでしょうが。あれなんです。ですから私共はそれがありますけれども、そう言う時にお広前に出てくる、お取次ぎを頂かせて貰う、ご神前に一心のご祈念をさせて頂いて行く所からです。所謂怠慢無礼な心が起こっておってもそれを払う事が出来る。
 そして実意丁寧忠実にです。御用させて頂く事がこよない楽しいもの、有り難いものに成って来るのです。今日私は「まめなとき家業をおろそかにし物毎におごること」という。なぜ奢ってはならないか。家業をおろそかにしてはならないか。それは折角信心をさせて頂いておる、そこに信心の喜びがかすかながらもある。その喜びがこう言う事では消える。そういう喜びが頂けないからだと言う事を聞いて頂いたですね。
   どうぞ。